渡邉邸保存会ホームページより
一部引用
昭和二十二年大阪府古文化紀念物等保存顕彰規則規定で重要建造物に指定、現在も渡辺忠綱から数えて十五、十六代目が住んでおられた(H21頃) 
  渡邊氏は、平安時代の武将渡辺綱(わたなべつな)の子孫と伝える。渡邊邸は大阪市淀川区に所在する。広大な敷地の中央奥に主屋が配されている。また敷地東面には門長屋、土蔵、付属屋が配されており、歴史的な景観を醸し出している。 
  渡辺家は、渡辺綱の子孫と伝える渡辺久良左衛門源忠綱(天正十年 1582没、行年不明)が構えた屋敷跡と伝え、もしそうなら大阪落城より以前からあった市中最古の民家の一つとなる。 
  綱はいうまでもなく源頼光四天王の一人で、鬼同丸や羅生門の鬼を退治した豪傑である。 
  建物は母屋と長屋門、土蔵等で、宏大美麗な庭がある。 
  無論何回か修理したであろうが、母屋の大黒柱に直径一メートル、長さ七メートルという古松の梁や蔶の子造りの天井は創建当時のままと聞いている。 
  渡邊邸の中心建物である主屋は、平入、茅葺の大規模な建物である。土間は梁間六間、桁行三間半である。中心となる部屋は九室あるが、さらに奥に座敷を二室つくり、表奥には式台と玄関を設けている。
 主屋は後世の改造を大きく受けているため、当初の規模、構造については不明な点が多い。 
   
  建物の構造や、柱等に残されている痕跡などから復元すると、本来の土間の規模は梁間六間、桁行五間半であったと考えられる。部屋については、中心となる九室のうち土間沿いの二室、奥の庇下の三室は後補であり、奥座敷の二室と玄関も後補であると考えられる。したがって主屋は当初クチノマ、ザシキ、ダイドコ、ナンドの整形四間取りであったと考えられる。ただし、現在、ナンドに入りこむ形で設置されている仏壇は、もとは三畳の仏間としてナンドとザシキ間に設置されていたらしい。 
  このように復元できる主屋の大きな特徴は、土間が極めて広いこと、ダイドコとクマクチの間が解放されていた可能性があること、 ザシキとナンド間に設けられている仏間が他に例を見ない取り方になっていることである。
  また使用している材は古く、建ちも割合に低い。こうした点から、 
  屋の年代は江戸時代初期(17世紀初頭)であると推測されている。 
  門長屋、 
  土蔵、附属屋の年代は不明であるが、いずれも江戸時代の建築であると考えれれる。 
  古くから当地の土豪であったことには疑いない。 
  大きな楠がある 
  大黒さんの上下に渡邉家の家紋があります 。
三ツ星に一文字(渡辺星)
  南側にある墓地の 門にも家紋があります
   
  伊能忠敬 

寛政12年(1800年)、56歳から始めた測量の旅。
9次に渡って続けられました。

その第5次、1805年の10月1日、渡邊邸に泊まっています。

   竹林もありました
  西三国の守り子歌
歌詞の「高須のもとみさん」とは渡邉家の事